3年間本気で英語をやってみた結果 カテゴリ: 英語学習全般


 

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photo by Cellen

1、信じた事を貫いた。

 

 

この人は凄い、と思う人には何度も頭を下げ食い下がったし、諦めなかった。

そういう所から多くの人間関係が生まれ、考えもしなかったことが生まれた。

逆にお願いされても嫌だと直感的に思うものは全て断った。

 

 

僕はこれまで少し冷めた目で生きてきたように思う。

 

暑苦しいことは苦手だし、できれば人と関わらず生きていたいほうだった。

 

それが英語を通じ世界の人と交わる喜びを知り、人との出会いの凄まじい力を知った。

 

 

人は人との出会いなくして大きくは変われない、そう思う。

 

 

学習法に関しても従来の方式を疑い、自ら信じられる答えを徹底的に求めた。

 

 

問題集なんかやってて英語が使えるようになるのか?

どうして日本人は英語が話せない人が多いのだ?

話せる人と話せない人の境目はどこにあるのだ?

なぜ日本人は英語を諦めてしまうのか?

 

 

徹底的に答えを求めた。

 

 

まだわからないこともあるけれど、ぼんやりとわかり始め、

道は開き始めた。

 

 

僕は英語学習を通じて、自分を貫くことを学んだ。

揺るがない、強い思いを持つことの大事さを知る事ができた。

 

 

 

2、英語を通して世界を眺める

 

 

僕はこれまで日本しか知らなかった。

日本人しか知らなかった。

日本人としか話した事はなかったし、

日本人としか関わることはないと思っていた。

日本人の考えが普通だと思っていたし、

自分の普通が世界の普通だとさえ思っていた。

 

 

その全てが英語を通して覆ってしまった。

 

 

日本以外に色んな国があって、色んな人種、宗教の人がいて、

時には殺し合い、時には笑い合いながら生きている。

 

 

世界は大きく、自分は小さい。

 

誰のせいでも、誰の為でもなく、

世界は今日も動き、回り続けている。

 

 

そんな本当に当たり前の事を、

僕はこれまで考えたことすらなかったのだ。

 

 

これは本当に恐ろしいことだと思う。

 

 

世界が狭い、などと言う言葉では片付けられないほど

根本的な事が欠落した状態だったように思う。

 

 

それに気付かなかったことが一番恐ろしいと思う。

 

 

英語を通して色んな国の人と出会った。

笑い合い、涙を流し、喧嘩もし、許し合い、認め合ってきた。

 

もちろんこの短期間の中なので数も機会もまだまだ限られてはいるけれど、

それでもこれまでゼロだった人間からすると、革命のような出来事だった。

 

 

世界を眺め、そして少し触れることで、その色合いが変わり

日本という国、また日本人という自分をよりくっきりと眺める事ができる

ようになったと思う。

 

 

 

その3、論理的思考

 

英語という言語を通して学んだ大きなことの一つがこれだった。

 

 

これこれこういうわけでこう思う。

 

これがこうなったから、こうしたいと思う。

 

 

道筋がはっきりとした説明、論理が明確な話、

当たり前のことだけど、これまでこんなことすら考えた事がなかった。

 

 

なぜだ?

 

 

という疑問を持つ幅が狭すぎたのだ。

 

 

スポーツ選手の試合後のインタビューなどを見ているとあぜんとする。

 

「今日の試合の感想を一言。」

 

「優勝を目標にチーム一丸となって頑張ってきたので嬉しいです。」

 

「相手チームはどうでしたか?」

 

「強かったです。でもチーム一丸となって頑張ってきたので勝てて嬉しいです。」

 

「来年の目標は?」

 

「チーム一丸となって頑張りたいです。」

 

 

こんなちぐはぐな会話にこれまで僕は疑問すら持たなかった。

 

でも英語を始めて、論理展開という大事な事を学んだ結果、

こういう会話がいかに変な展開をしているかを感じられるようになった。

 

 

ビジネス会議などでも、日本人の説明はなんだか筋が通っておらず

なぜかはわからないけれど、これはこういうものだから、こうなんです、

というような流れの話しをよく耳にする。

 

当然だけど相手の外国人はポカーンとしている。

 

 

全ての会話に論理は必要ではないと思う。

友達との会話などリラックスした会話はイロジカルな事の連続だ。

 

 

それでも大事な局面で相手を納得させたり、理解してもらう為には

論理、は必ず必要だ。

 

 

論理というのは「誰しもに見える道筋」なのだ。

 

 

それに納得できるできないは別にして、まずは道を示せない事には

何も始まらない事を、僕は英語を通じて学ぶ事ができた。

 

 

なぜ?という疑問を素直に持てる事はなにより大事で

自分という存在をより強固にしてくれるものなのだ。

 

 

その4、情報収集の喜び

 

世界は英語で繋がっている。

反対しようが納得いくまいが、これは事実だ。

 

 

世界の出版の殆どは英語だし、世界に向けてのニュースは英語だ。

英語を通じて最新の情報はオンタイムで鮮度を保ち

世界に向けて放たれている。

 

 

英語ができない、ということはそれをキャッチできない、ということ。

貴重な栄養源が体内に吸収されないままになっている状態。

 

 

英語でニュースを聞いたり、ネットで情報を得ることは

思っているより難しくはない。

 

 

基本的な文法の理解と、後は語彙なのだ。

もちろん背景知識なんかも必要だけれど。 

 

なんでもかんでも情報を収集しようとするから上手くいかないのだ。

 

 

そんなに世界で起こる全てのことに全方位的に

アンテナを張る必要のある人などそうはいない。

 

 

普通のぼくらのような人は一つ、二つ、分野を絞るのだ。

 

 

専門用語が多くて難しい、という言葉をよく聞くが完全に間違っている。

 

 

専門用語とは全用語の中のほんの一部の限られた言葉にすぎない。

 

 

専門用語とは「全ての語彙の中の少ない単語だから覚えやすい」が正解だ。

 

 

専門用語は少ない、のだ。

 

 

そして興味をもった分野の用語だから何より覚えやすい、のだ。

 

 

自分が必要な情報に絞れば、英語での情報収集は必ずできるようになる。

そう期間も時間もかからない。

 

 

 

その5、英語学習にかける労力と時間、またその対価

 

多くの日本人が英語を始める際、最も気にするのがここだと思う。

 

 

どれだけの時間をかければできるようになるのか、

またそのかけた時間は報われるのか?

 

 

1日数時間かけて英語に費やした労力は、

どういう形で人生にキックバックされるのか?

 

 

僕は

今全く英語ができない、というのであればかける意義は多くの人にとって

ある、と言える。

 

 

やはり英語ができる人とできない人には大きな差があると言わざるを得ない。

 

 

それは英語ができる、できないの差ではなく

考え方の幅、人との接し方の幅、なんだと思う。

 

 

英語ができる事の最大のメリットは

 

「比較できる」ことにあるように思う。

 

 

外国のものが全ていいということは絶対にない。

また逆に日本のものが全ていいなんてことは絶対にない。

 

 

全てに良い所と悪い所があるのだ。

 

その両端を知り、比べる事ができるようになる、

これが英語を使い情報を収集できる人の最大の強みだと僕は思う。

 

 

だから極端な話し、日本語を駆使してそれができるのであれば、

その人に英語は必要ないかもしれない。

 

 

それはかなりの高い様々なスキルと経験を持った人で、

そういう人はもうその時間をどんどんキャリアアップにつなげるのが得策だろう。

 

でも、僕のように、まったく世界と比較する、

世界のスタンダードを知らない、何が常識かもわかっていない

 

 

という人間が触れる「世界」は強烈に楽しいし、革命的なのだ。

 

 

時間は有益だ。

人生の残り時間は限られている。

 

 

だから、始めるなら必要な荷物以外は背負わないスタイルで行くといいと思う。

 

 

誤解を恐れずに言うと、

英語で、かつ文字での情報収集のみが目的であれば

読み方などどうでもいいし、発音、アクセントなどどうでもいい。

話せなくても、聞き取れなくてもいいのだ。

 

 

ネイティブ表現もスラングも、カジュアル表現もジャンル外の用語もいらない。

 

 

英語での目的達成は無数に伸びた放射状の道を行く旅ではなく、

ゴールに向けたただ一本の道を進む旅だ。

 

 

その6、英語はノンネイティブのもの、だから堂々としよう。

 

そう断言してもいいと思う。

ネイティブ信仰という変な宗派が日本の英語学習界隈にはあって

ネイティブのようにペラペラだとか、あなたもネイティブのようになれる、

などと言った宣伝文句は今も後を絶たない。

 

 

なぜ、ネイティブのようにペラペラになりたいのか。

 

 

そんなのは簡単で、

なんだかかっこいいから、だ。

 

 

じゃあなぜ、かっこいいと思うのか?

 

 

そう聞かれて果たして何人の人が答えられるだろうか?

 

 

そんな理由もわからず憧れるような対象に人生の貴重な時間を使えるだろうか?

 

 

なぜだかわからない、何の役に経立つのかもわからない

「ネイティブのように英語を話す」

ことに時間を費やした先に果たして何があるのか?

 

 

そこを突き詰めて考えないといけない。

 

 

僕が英語キュレーターとして本当に伝えたいことは

一言で言うと、そこに集約される。

 

 

なぜ、英語をするのか?

 

 

そこに答えがない以上、それは趣味以外の何ものでもない。

 

 

英語が趣味、それはそれで何も間違っていない。

 

 

 

ただ英語が趣味の人と、英語が必要な人

 

をこれまで英語学習界隈の人たちは同等に扱ってきた。

 

 

そこのマインドセットを明確に変えないといけないのだ。

 

 

 

趣味とは時間を費やすためにあるもの、

 

英語が必要な人は英語の「先」に時間を費やすためのものがあるのだ。

 

 

同じなわけはない。

 

 

同じであってはならない。

 

 

伝わる英語、通じる英語がある。

 

逆に言うと通じないものもあるし、それではさすがに相手にはわからない

という発音や和製英語などもある。

 

巷には「ネイティブはそんな風には言いません」

という類いの本が溢れている。

 

ネイティブはそんな風に言わないけれど、

ノンネイティブだからこう言うのだ。

 

 

間違っていいとは思わない、正しい事を知る必要がないとも思わない。

 

 

発音も表現も洗練されているに越した事はない。

僕もそこを諦めるつもりはない。

 

でも、そこは緩やかな目標でよく、もっともっとその先に

プライオリティの高いものがあるのだ、

ということを知っておかなければならない。

 

 

僕らはノンネイティブとして、

第二言語として英語を学び使っている。

 

 

それはとても誇らしいことだし、

誰にも傷つけられない崇高な姿勢なのだ。

 

 

私の英語が間違ってたら直してください、

とTwitterのプロフィ−ルに書く英語学習者は多い。

 

 

でもそんな必要はないし、その姿勢はおかしい。

 

間違いは自分で気づくもの、

その姿勢さえ失わなければ、

必ず正しいものに対する嗅覚は伸びていく。

 

 

英語が下手ですいません、

なんて例文が載っている本があって破り捨てて

燃やしてやろうかと思うくらい腹が立った。

 

 

どうして謝らなければならないのか、

どうして間違ったとしても話そうとしている自分を認めてあげられないのか。

 

 

どうして聞き取れないのにヘラヘラしてしまうのか?

わからないままにしてしまうのか?

すぐに謝ってしまうのか?

なかったことにしてしまうのか?

なぜ、とことんまで話さないのか?

 

 

僕は英語を通して堂々とする、というとても大切な事を学んだ。

 

 

ネイティブスピーカーのようになる必要はない。

どこかの英語の早期学習を実行する幼稚園では園児に

イングリッシュネームを与え、ジョンとかナンシーとかで呼び合わせているそうだ。

そんなことあってはならないと思う。

 

 

お父さん、お母さんからもらった名前をなぜ英語を使うことで

捨てなければならないのか。

どうしてネイティブのような名前を設ける必要があるのか?

 

 

僕らはもともと、そしてこれからも僕らなのだ。

 

 

英語ができるようになるということは何かを犠牲にすることではない。

何かを失ってしまうことではない。

何かにおもねることではない。

 

 

今の自分に重ねていくものなのだ。

ワイリンガル、という僕の考えはこれからも一切揺らぐことはない。

 

 

誰かのようになることではない、自分をより自分にしていくこと、

それが僕が英語を通して学んだ事なのだ。

 

 

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いつかスイッチが入るその時まで。